以前の記事で、人生とは生きるとは、自分で自分の欲を扱うことの連続・積み重ねだと書きました。
普遍的と感じる内容をさらに掘り下げることになるとは、思ってもみなかった、2020年のある日。
マズローの6段階欲求の図を眺めながら、新たな疑問が次、次と湧いてきました。
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何のために自分は欲を扱っているんだろう?
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そもそも、自分って何?
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なんで、今までこのことに気付かなかったんだろう・・。
それは、取り組んできたことが一段、掘り下がったからだなんてリアルタイムでは気づくはずもなく、ただただ不思議な気持ちになりました。
気になったことは他にもあります。
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6段階目の自己超越って何?
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「自己」とあるからには「自分」と関係しているはずなのだけれど、自分で自分を超えるって、どういう意味?
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図の形が、1-5段階目は△なのに、6段階目は▽になるのは何故?
そんな疑問が次々湧いていた、当時の私は、継続セッションや、自身の取り組み内容などを、よりわかりやすく説明ができるよう、図に表すことを思いつき、試行錯誤していました。
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「人生は自分で自分の欲を扱うことの連続・積み重ね」なのだから、マズローの図は、人生の縮図とも言えるのではないか。
これまで取り組んできたことを、この図に当てはめてみてはどうだろう。
言葉による説明に、限界を覚えての試みでしたが、この作業は、私にとって大正解となりました。
取り組み内容を言葉で理解していた時には、気づけなかった数々のことを、この図が教えてくれたからです。
自分とは何か?
今「自分とは何か」と問われたら、私はこのように答えます。
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でも、人生って、選択の連続と言うでしょう?
自分のことを、何も選べないって、どういうこと?
このように思われた方が、いらっしゃるのではないでしょうか。
今日の記事では、「人生とは生きるとは、自分で自分の欲を扱うことの連続積み重ね」という前提のもと、十数年に渡り、感情や思考、言動などをありのまま認めることで明らかにしてきた
- 自分とは
- 自分のことなのに何も選べない
- 自分にできる唯一のこと
- 人生は選択の連続とは何か
- 欲とは何か
- 自分らしさとは何か
- 自分らしく生きるとはどういうことか
を詳しく紹介します。
最後まで読むと、「自分とは何か。自分らしさとは何か。自分らしく生きるとはどういうことか」がわかります。
自分とは
自分とは、(自分らしく生きることを目的に)自分のことを何も選べないという制限がある中で、自らの内に生じる欲を扱い続ける存在のことです。
自分軸教習所では
という、自分を活かす欲の扱い方を身に着けるため、感情や思考、言動などをありのまま認めるという取り組みをしています。
これは、自分のことを何も選べないという、制限がある中で、自らの内に生じる欲を、ありのまま認めながら、扱い続けるという方法です。
ということで、次に制限となるものについて説明します。
1・自分のことを何も選べない
ここで、あなたが生まれた頃のことを、振り返ってみましょう。
あなたは、自分のことを、自分では何一つ、選んだり、決めたりすることができませんでしたよね。
例えば
- 生まれる時代
- 生年月日や時間
- 名前
- 性別
- 容姿
- 体質
- 所属する国や都市、社会や家庭、家族
など。
自分のことを何も選べない中で、自分は複数の社会に、同時所属しています。
生まれてから現在に至るまで、国・都道府県・市町村・地域・職場・学校・親戚・家庭など、さまざまな社会に同時に所属しています。
「自分が親を選んで生まれてきた」という情報があります。
その親の元に、生まれることを自分が選んだ。
自分の意思・選択に関係なく、親の意思や性交、妊娠、出産を経て生まれた。
どちらであっても、「自分のことなのに自分では何も選べない」のは共通です。
でも、自分が選べないのは、自分のことだけではありません。
2・出来事の発生も選べない
外側である、出来事(ヒト・モノ・コト)の発生自体も、自分では、選べません。
どんな出来事が生じるのか。
例えば、天変地異、災害、戦争や、誰が自分に何を話してくるのか。
どんなことをしてくるのか。
自分の家族や周りの人達に、何が起こるのか。
ヒト・モノ・コトの発生自体を、自分では、コントロールができないのです。
生きることは、道理にかなうことばかりではありません。
不合理、不条理、理不尽、矛盾などを感じる場面が多々あります。
これらも「制限」になるのです。
自分が選べないことは、まだあります。
3・欲の発生自体も選べない
ヒト・モノ・コトに接する、あなたの中に、いつ、どんな欲が発生するのかを、自分では選べないのです。
例えば
- 欲しいと一切思わないようにする
- 明後日の〇時〇分に必ずやる気に満ち溢れるようになる
- 今すぐに、あの研究がやりたくて仕方がなくなる
のようなことは、可能でしょうか。
「~したい」という欲は、自分の中で起きているにもかかわらず、思うようにはなりません。
自らが、欲の発生自体をコントロールすることは、できないのです。
自分にできる唯一のこと
自分にできるのは、自らの内に発生した、欲を自分で扱うことのみ。
なので、さまざまな制限がある中で、自分はどうあるのか、どうありたいのか。
そのために、自分の欲を自分が「どのように」扱うのかが、大事になるのです。
詳しくは別の記事で触れますが、「どのように」に当たるのが、他人軸か、自分軸かです。
自分軸教習所では、自分らしさを活かす欲の扱い方を、身に着けるために、EFTタッピングの手法を使って、感情や思考、言動などをありのまま認め、他人軸→自分軸の順で、両方の欲求を満たす取り組みをしています。
人生は選択の連続とはどういうこと?
人生は選択の連続と言いますよね。
これは、自分の内に生した欲を、自分で扱う時に、選択の連続になるという意味です。
例えば、用事でどこかに出かけて、お腹が減ったという時。
お腹が減ったと感じたことを、自分が「何かを食べたい」という欲へと変えた後は
- 今食べるか
- 後で食べるか
- 食べたいけれど食べないのか
- 何を食べる
- 誰と食べるか、一人で食べるか
- どこで食べる
- どのくらい食べるか
- なぜそれを食べるのか
など、自問自答をしながら、選択、決定を繰り返しています。
以上のことから、人生は選択の連続とは「自らを満たすために、自分の内に生した欲を扱い、自問自答しながら選択・決定を繰り返すこと」を意味しているのです。
欲って何?
欲とは
を指します。
欲は
- 最初から「~したい」という欲の形で自己認識しているもの
- 感情・感覚止まりになっていて、自ら言語化し欲へと変える必要のある「欲となり得るもの
とに分かれます。
Bの場合は、感覚、感情を言語化し、自問自答によって「~したい、したくないなどの欲」へと掘り下げる必要があります。
普段は意識しませんが、人は、ヒト・モノ・コトに触れる時、無意識のうちに、過去の歴史に反応した状態で、現在の欲を扱っているのです。
中心となる欲
自らの内に生じる、欲や欲となり得るものを自分で扱う時。
中心となるのは、マズローの図の3段階目、社会的欲求です。
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なぜ社会的欲求が中心になるのか。
それは、1・複数の社会に同時存在した状態で、2・ヒト・モノ・コトに対して生じた、3・自分はどうしたいのか欲を扱うことになるから。
自分のことを何も選べない制限のある中で、自分の欲を扱うというアレです。
なので、さきほど例に挙げた、「何か食べたい」という欲も、3段階目で扱います。
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「食べる」って生理的欲求だから、1段階目じゃないの?
と思った方もいらっしゃるかもしれません。
確かに「食べる」は1段階目です。
ですが、全ての段階の欲求はつながっていて、それぞれ目的がある。
例えば「食べる」一つをとっても、目的は下記の通り
- 2段階目:心身の維持、自分(や周囲)を守ること
- 3段階目:自分の好きなものや必要なものを選ぶ
- 4段階目:誰かとの会食、友人のお店を訪問する
などがあります。
「食べたい」を実現するのは、5段階目なのですが、その際には、直接的または間接的に、4段階目の対人関係が、絡みます。
お店に行く場合は、支払いに合意する条件で、食べ物が提供されます。
例え、誰にも会わずに一人で食べたとしても、「誰かが作った材料」を使ったり、買ったりするので、間接的には対人が絡むのです。
食べることで、5段階目の自己実現となり、4段階で支払いを済ませ、3段階目の「食べたい」が満たされ、2段階目で自身も維持でき、1段階目の生理的欲求が満たされます。
「~したい」という欲は単体でも、実際に扱う時には、選択の連続によって、1-5(6)段階がつながります。
自分の欲を満たすために、思い感じ考え、行動し、結果を得て、次につなげます。
例えば
「あのお店は美味しかったから、また行こう。」
「対応が良かったから、また行っても良いな。」
「自分でも作れそうと思って試してみる」
など、一つ経験が増え、それが後の選択肢になったり、自分の可能性が広がったりすることなどに結びつきます。
仮に、5段階で「食べる」が実現しても、4段階でお金を払わず、無銭飲食をした場合。
そうすると決めた3段階目の自分を咎められ、警察に出されると、2段階目で自分の身を守れなくなります。
精神的なダメージで、寝られない、食べられないのような感じにもなるかもしれません。
このように、全ての段階はつながっています。
3段階目の「自分がどうしたいのか」を中心に、上下の欲求を満たしていきます。
欲を扱い続けることが自分らしさになる
なぜ日々、自らの欲を自分で扱い続けるのかというと、これが「自分らしさ」になるから。
自分とは、自分のことを何も選べない、制限のある中で、ヒト・モノ・コトに触れながら、自らの内に生じる、欲を自分で扱う場合、選択の連続と述べましたが
1・選べなかった自分のこと
2・生じる出来事
2・自らの内に発生する欲
4・欲を扱う際に選択・決定の連続になること
これらは、単体でも、組み合わせでも、その人にしかない「自分らしさ」です。
人は、自分の内に生じる3段階目の「~したい」という欲・意思を中心に、上下の欲を自分で認め、求め、満たしながら
- 経験や体験
- 学び
- 遊び
- 運動
- 何かしらの術・
- コミュニケーションスキル
- 知識
などを得たり、好奇心を育んだりしています。
また、積み重ねによって、趣味・嗜好・傾向などが明らかになったりもします。
自分らしく生きるとは
ヒト・モノ・コトに対応する時に、自分らしさを「活かす」欲の扱い方を日々、積み重ねることで「自分らしく生きる」ことができます。
自分らしさを活かすのは、自らの尊厳を守ることでもあるのです。
そのために、必要なのが、下記の二点。
そのために、ヒト・モノ・コトに対応する時に、自分の感情や思考、言動などをありのまま認め、掘り下げ、まずは「自分がどうしたいのか」を引き出し、尊重します。
人間関係においては、お互いの欲の違いを尊重しつつ
- 自分がどうしたいのかに沿って、伝えたいことを、相手に伝わるように話す
- 相手の言うことをひとまずそのまま聞く
- 何をする必要があるのかを理解して行動する
必要があります。
なぜなら、過去に経験してきたことも、欲の積み重ねの歴史も、皆、違うからです。
同じ場面で、同じものを見ても、似たような反応をすることはあっても、その背景にある、経験や思い感じ考えたことなどは、違います。
そのため「わかって当然」「分かり合えるはず」という前提で動くと不要なトラブルを招きます。
お互いに違いを尊重するからこそ、「話しても大丈夫」な状態を作れるのです。
自分らしく生きることは誰かの刺激になり得る
あなたの過去の積み重ねや、現在の在り方、言動、振る舞い、取り組んできた全てのことは、「あなた以外の誰かにとって、外側の刺激」になり得ます。
また、同・上・次など世代にかかわらず、直接・間接的に接することで、互いに影響を及ぼし合うことにもなります。
それが、互いの「より良い何か」や「自分にはないアイデア」「改善」「反省」などへと結びついた状態で、共に発展する流れへとつながっていきます。
だから、自分らしく生きることは、とても大切なことなのです。
何も選べない中で選び続けていくと一つの自己実現が生じる
日々、自分で自分の欲を扱い続ける中で、小さく1-5段階を満たし続ける訳ですが、ある日。
「将来、こういうことをしてみたい」という一つの望みを抱き、目標を掲げ、実現に向けて頑張るようになるのかもしれません。
もしくは、日常の不満、苦しみ、辛さ、痛み、憤り、理不尽、不合理、不条理などを機に、大きな悩みや問題を抱え、これらに「自分はどうしたいのか」に沿って、対峙していくことになるのかもしれません。
自分が困ったことに対し、「どうありたいのか。どうすればいいのか。何をしたらいいのか。」などと疑問を抱くのかもしれません。
「こうありたい」という思いのもと、一つずつ疑問を解きながら、実現に向けて頑張るのかもしれません。
制限がある中で、目の前のヒト・モノ・コトに対して生じる、「どうしたいのか」自分の欲を扱い続けることは、(自分のことを)何も選べない中で(欲を扱い)選び続ける」ことでもあります。
何も選べない中で生じた「~したい」という欲のもと、自問自答と選択・決定を日々繰り返し、望んだことに対する一つの結果を得て、1-5段階が満ちた時。
集大成となる、一つの「自分がどうしたいのか」が、あなたの中から出てきます。
自己超越
集大成となる、一つの「自分がどうしたいのか」が、自己超越の入り口に到達した、合図です。
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自己超越の入り口とは、自分のことを、何も選べない中で)選び続けたものの中から、生まれた自分の欲のこと。
人によって、自己超越が何かは違うのですが、
- 新しく仕事を始める
- やりたいことをやる
- 自分ならではのサービスを提供し始める
- 結婚する
- 出産する
- 家を出て自立する
などがあり、▽で表されている通り、発展していく段階です。
生涯に渡り、何度かあるはずです。
これまで積み重ねた1-5段階をもとに、自己超越の入り口で生じた、自分がどうしたいのかに沿って、下記の二点を抑えながら、発展していく流れにあります。
自分がどうしたいのかに沿って、ヒト・モノ・コトに対応しながら、自己実現までの段階で得た経験や学んだことなどを活かして、自問自答による選択・決定を繰り返すことになります。
▽を拡大していくにあたり、自分がどうしたいのかに沿って、1-5段階を強化する必要性が出る時もあります。
この場合は、一時的に、後退するような感じを覚えるかもしれません。
ですが、自分がどうしたいのかに沿って、ヒト・モノ・コトに対応しながら、自問自答を通じて選択・決定を繰り返すうちに、取り組んできたことが、さらに掘り下がり、それが自分や周囲に活きていきます。
「自分で自分の欲を扱うこと」に関して、一回一回は大したことがないと感じます。
でも、日々の積み重ねは、あなたが自分らしく生きて行くための力や、指針、知恵、財産、自信など、前に進む際の心強いお守りになるのです。
まとめ
自分とは、(自分らしく生きることを目的に)自分のことを何も選べないという制限がある中で、自らの内に生じる欲を扱い続ける存在のことを指します。
自分らしさとは
1・選べなかった自分のこと
2・生じる出来事
2・自らの内に発生する欲
4・欲を扱う際に選択・決定の連続になること
単体もしくは、これら4つを組み合わせのことです。
これらの組み合わせは、その人にしかない、唯一無二のもの。
自分らしさを「活かす」欲の扱い方を日々、積み重ねることで「自分らしく生きる」ことができます。
なので、自分軸教習所では、自分らしさを活かす欲の扱い方を、身に着けるために、EFTタッピングの手法を使って、感情や思考、言動などをありのまま認め、他人軸→自分軸の順で、両方の欲求を満たす取り組みをしています。